連絡船 ── 航行記(第一期・第二期)



(二七)「謙遜な勇気」

 前回、私はキルケゴールの名を引いて、アリョーシャ・カラマーゾフの「謙遜な勇気」といいましたが、それはこういうことなんです。

 いまここに一人の貧しい日傭取りと史上に類のない程の強大な権力をもった帝王とがいるとする。この無上の権力をもった帝王が突如として使者をこの日傭取りの許に遣わすことを思いついたとしよう。帝王が自分の存在を知っているなどという考えはこの日傭取りの心には夢にも浮かんだことはなかったし、それは「その心未だ思わざりし所」であった。もしも帝王をただの一度でも仰ぎ見ることが許されることでもあればこの男は自分を無上に幸福な人間と感じて、それを彼の生涯の最大の事件として子々孫々に語り伝えることでもあろう。さてこの日傭取りのもとに帝王が使者を遣わして、帝王が彼を養子に欲しいと考えているということを彼に知らせるとする、── 一体どういうことになるであろうか? 日傭取りは、彼がそれを人間として人間的に受取るものとすれば、きっとすこしばかり戸惑いして(おそらく非常に戸惑いするかもしれぬ)何だか羞ずかしいような困ったような気がすることだろう。彼にはそれが人間的には何かしら非常に奇妙なこと馬鹿げたことに思われる(これが人間的なことである)ので、こんなことは決してほかの人に話してはならないと考える。というのは知人や隣人がそれを聞いたら誰にもすぐ思いつくであろうところの解釈が既に彼の心の底にも頭を擡げてきているのである、── 帝王は自分を馬鹿にしようとしておられるのだ、それで自分は街全体の笑いものになり、自分の漫画が新聞に載せられ、帝王の皇女との結婚話が大市で売られることになるのだ、と。いったい帝王の養子になるというこのことは、むろんすぐにでも外的な現実となりうることなのであり、したがってまたこの日傭取りは、帝王がどの程度までそのことを真剣に考えているのかどうか、それとも帝王は貧乏人をただ馬鹿にしようとしているのか、その結果彼の全生涯を不幸なものにし、結局彼が気狂病院ででも終るようにしむけるつもりなのかどうか(というのは、いまの場合のように度のすぎたことをいうものは、容易にその反対に転化しうるものだから)、を自分の五官でたしかめうるはずもないのである。ところが小さな好意を示されたのであればこの日傭取りにも理解することができるであろうし、小都会に住んでいる人達もそれを理解することができよう、大いに尊敬せられるべき教養ある公衆も、すべての聡明な御婦人達も、要するにかの小都会の五十万の住民の一人一人(一体人口の点でもこの小都会も或いは相当の大都会であるのかもしれぬが、並はずれたものに対する感覚と理解の点ではまことにちっぽけな小都会なのである)がそれを理解しうるであろうが、日傭取りが帝王の養子になるなどということは、これはあまりといえばあまりのことである。ところがいま外面的な事実は全然問題にならないで、ただ内面的な事実だけが問題であるとする、したがって日傭取りを確信に導きうるようないかなる事実も存在せず、信仰のみが唯一の事実であるとする、そこで一切が信仰に委ねられているとする、── その場合でも彼の男にはあえてそれを信ずるだけの十分に謙遜な勇気があるであろうか? というのは厚顔な勇気は信仰にまで導くことはできない。その場合一体それだけの勇気をもっている日傭取りが幾人いるであろうか? そういう勇気をもたぬ者は、躓くであろう、並はずれたことが彼には彼に対する嘲笑のように響くことであろう。おそらくその場合彼は明らさまにまじめにこう告白するであろう、──「そういうことは私にはあまりに高すぎる。私はそれを理解することができない、(腹蔵なくいえば)それは馬鹿げたことのように思われる。」
(キェルケゴール『死に至る病』 斎藤信治訳 岩波文庫)

 私がこの『死に至る病』を読んだのは、大学一年のとき(一九八一年夏)で、べつの大学(ミッション系)に入った高校時代の友人のために、彼の必修科目のレポートを代筆するので読まなくてはならなかったんですね。
 しかし、その読書からあれほどの衝撃を自分が受けることになるとは夢にも思わなかったんです。あんな衝撃はもう二度とご免だといまでも私は思っているのじゃないでしょうか?
 そのときの私はまだドストエフスキーの『罪と罰』も『白痴』も『悪霊』も『カラマーゾフの兄弟』も読んでいませんでした。かろうじて、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』だけは読んでいましたが。
そのときの私はまだただひとりの異性ともつきあったことがありませんでした。
 いやはや、『死に至る病』は、そんな若者がいきなり読んではいけない本なのじゃないでしょうか? というのは、ひとつには、この本で語られていることのいちいちが恋愛あるいは恋する者の心理ということに読み換えうる(しかし、それもキルケゴールと彼の婚約者との関係についてや、彼の他の著作を読めば、当然のことなのかもしれません)のじゃないかと私が思っているからで、実際、私はそんなふうに読んだわけなんです。そういう読みかたをするひとにこの本はとても危険だ、劇薬であると私は思うんです。この読書はあまりにも読者を試す ──「あれかこれか」のいずれかの極端へと向かわせる ── ことになるかもしれないからです。
 私が『死に至る病』およびそこからのつながりでのドストエフスキー、ニーチェ、カミュなどから受けた傷・損傷・破損・破裂・裂傷・壊疽・複雑骨折・打撲などなどの認識・感動・高揚・苦悩から、かりそめにも回復 ── しかし、元通りになるなんてことはありえません ── するまでにいったいどれくらいの年数が必要だったか? 十年じゃきかないのじゃないでしょうか? 
 それで、一連の読書から受けた・こうむった「傷・損傷・破損・破裂・裂傷・壊疽・複雑骨折・打撲などなどの認識・感動・高揚・苦悩」などが、そもそもそれらの読書の最中の自分 ── 冒頭はちんぷんかんぷんでしたが、読み進むにつれ、ただもうのめり込んで熱中しました。なにか格闘の充実感というか、そういうものがありましたっけ ── にちゃんとわかっていたかといえば、そうじゃないんですね。これは、それらを読み終えてしばらく時間のたった後でなにかの拍子に漠然と、曖昧な違和感をともなって ──「あれ?」というふうに ── わかりだすんです。というのは、気がつくと、なにかを考えるのに、たとえば自分が読み取ったキルケゴールの視点・方法で自分が考えている、これまでそんな視点・方法 ── あるいは語彙といってもいいですが ── で考えたことのなかったことをキルケゴールふうに考えているんです。次第にそういう自分の変調に当惑することになるんです。それまでは無意識にできたこと・当たり前に感じたり、判断したりできていたことがそうできなくなっているんです。そうして、いつのまにかとても奇妙で奇怪な未知の自分が自分のなかに居座っていることに気がつくんです。
 なにか大きい規模で他人から神経の移植手術でも受けたようなものです。自分の神経のある部分が大きく抉られ、破壊され、摘出され、他人の神経が移植され、それに向かって、自分の神経が徐々に、これまでとはべつの形・べつの触手を伸ばして結合し、まったく新しいネットワークを築きはじめた、とでもいえば、わかってもらえるでしょうか。これについては、いつかマーラーやシベリウスに触れることがあれば、もうちょっとしゃべりましょう。
 そうすると、私にとっての「世界」はこれまでとは全然べつのものになったわけです。「世界」はこれまで自分が考えていたようなものじゃなかった、と私は理解しはじめるんですね。それは、まるで自分がそれまで知っていた「世界」から裏切られたというような感じもしたんでした。それにしたって、ある時点で一連のなにもかもが不意にわかったというのじゃなくて、とにかく自分がおかしくなっているのはわかるけれども、それがどうなっているのか、どういうことなのか、どうしたらいいのか、どう動けばいいのかのわからない状態がずっとつづいていたということです。うまく説明できません。それに、私は『死に至る病』を読んでからしばらく ── 数年か、いや、十年単位で考えなくてはならないのかもしれません ── のことを、あの当時のそのままに思い出したくはないんです。たぶん、怖いんです。そういう覚悟が決まらないまま、ここでしゃべっているんです。怖いまま、あなたにも読めといっているわけです。

 そんなわけで、『死に至る病』についていえば、未読の方は覚悟してください。それと、いわば解毒剤としての椎名麟三の名まえをいまは挙げるだけにしておきましょうか。


『死に至る病』には、たとえば、こんな文章もあります。

 いま一人の恋している者を考えてみるがいい。実際彼は毎日毎日夜となく昼となく自分の恋のことを語りつづけることができるであろう。だが彼が、恋するということは何といっても意味のあることだということを三つの理由によって証明してみようと思いつくことがありうると諸君は考えられるか、彼にとってそんなことが可能であると諸君は考えられるか、そのようなことを口にすることは嫌悪すべきもののように彼には思われるだろうとは諸君は考えられないか?
(同)

 あるいは、

 そのことについて全然人間的に語ってみよう。愛の故に一切を捧げようとする衝動を感じたことのなかった人、したがってそのことのなしえなかった人、ああ、これは何と憐れむべき人間であろうか! けれどももしも人間が愛の故にほかならぬ彼のこの献身の故に、もう一人の人すなわち彼の愛人が最大の不幸に陥ることになるかもしれぬということを見出さねばならかったとしたら、どうであろうか?
(同)

 どうです? こういう問いかけそのものが読者にとっては酷じゃないでしょうか?

 ここに、またべつのいくつかの作品の次のような文章をそれぞれ一滴ずつ垂らしてみたらどうでしょう?

「愛こそが人間が生きる唯一の目的だと信じていたでしょ。信じていないの、もう?」とレシは言った。
「いないね」とわたし。
「ではなんのために生きているのか教えて ── どんなことでもいいから」とレシは悲痛な声で言った。「愛でなくてもいい。ねえ、なんでもいいから!」彼女はそのむさくるしい部屋の品々を大きな身振りで指さすことによって、この世界は古道具屋だというわたし自身の想念をみごとなドラマに仕立て上げた。「わたしはあのいすのために、あの絵のために、あのボイラー用パイプのために、あの長いすのために、あの壁のひびのために生きたっていい! なにかこれのために生きろと言って! わたしはそれを目的にして生きるから!」と彼女は甲高い声で訴えた。
 レシの力ない手はいまわたしにしがみつこうとしていた。彼女は目を閉じて泣いていた。
「愛でなくてもいいの」と彼女はささやいた。「なんのためならいいのか、教えて」
(カート・ヴォネガット『母なる夜』 飛田茂雄訳 早川文庫)

 あるいは、

「あなたそれ程に高木さんの事が気になるの」
 彼女はこう云って、僕が両手で耳を抑えたい位な高笑いをした。僕はその時鋭どい侮辱を感じた。けれども咄嗟の場合何という返事も出し得なかった。
「貴方は卑怯だ」と彼女が次に云った。この突然な形容詞にも僕は全く驚ろかされた。僕は、御前こそ卑怯だ、呼ばないでもの所へわざわざ人を呼び付けて、と云って遣りたかった。けれども年弱な女に対して、向うと同じ程度の激語を使うのはまだ早過ぎると思って我慢した。千代子もそれなり黙った。僕は漸くにして「何故」という僅か二字の問を掛けた。すると千代子の濃い眉が動いた。彼女は、僕自身で僕の卑怯な意味を充分自覚していながら、たまたま他の指摘を受けると、自分の弱点を相手に隠す為に、取り繕って空っ惚けるものとこの問を解釈したらしい。
「何故って、貴方自分で能く解ってるじゃありませんか」
(夏目漱石『彼岸過迄』 新潮文庫)

いま、ちょっとこれを思い出しました。

「犯人がだれか、兄さんは自分で知ってるでしょう」心にしみるような低い声で、アリョーシャは言い放った。
(ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』 原卓也訳 新潮文庫)

 それはともかく、べつの作品からは、

 ぼくが認識の吐き気を名づけているものがあります。リザヴェータさん、あることがらを見抜くことによって、たちまち死ぬほどいやな気持ちになる(和解する気分にはとてもなれない)状態ですね。── デンマークの王子ハムレットの場合がそうです。── ハムレットは典型的な文学者ですからね。この王子は知るために生れたのではないのに、知るという宿命を負わされている。これがどんなことなのか、彼はよく知っていました。感情の涙のヴェールをとおしてもなお洞察し、認識し、こころにとどめ、観察する。しかも、その観察したものを、手と手がからみあい、唇が触れあい、まなざしが感動のとりことなってくもる瞬間でも、微笑しながら、そっとわきに置いておかなくてはならない。── これはいまいましいことです、リザヴェータさん。いやしいことです。しゃくにさわることですよ。
(トーマス・マン『トニオ・クレーガー』 野島正城訳 講談社文庫)

 また、ワーグナーの歌劇『さまよえるオランダ人』(神を侮辱することばを口にしたために、永遠に海上をさまよう ── 死ぬこともできない ── 呪いを受けたオランダ人の船長は、しかし、七年に一度陸に上がることを許されています。その機会に彼が自分を愛してくれる処女を見出すことができれば ── 彼女の死とともに ── 呪いを解かれるんです)についての文章。

『さまよえるオランダ人』第二幕で、オランダ人はゼンタとの美しい二重唱で次のように歌います。

 暗い炎がこの胸に燃えているのを、私は感じる。
 不幸な身の私は、この炎を恋と呼んでよいのだろうか。
 いや、いや、これは救いを求める憧憬なのだ。
 ああ、このように愛らしい天使によって、
 救いが私に与えられるとよいが!

 この詩句はいかにも歌うことができる詩句ではあります。しかし、これほど複雑な思考の産物、心的にこれほどこみ入ったものが歌に歌われたこと、あるいは歌の言葉として指定されたことはかつて一度もありませんでした。呪われた男は、一目見てこの娘を愛します。しかし彼は、自分の愛は本来彼女に対するものではなく、救いに対するもの、救済に対するものだ、とわが身に言って聞かせるのです。とはいえ、一方では、彼の目の前にいる娘は、彼にとってやはり救いの可能性の化身にほかならないのですから、彼は宗教的な救済への憧憬から区別することはできないし、また区別したくもありません。なぜなら、彼の希望はここに彼女という姿をとっており、それが別の姿をとって現われることを、彼はもはや望むことができない。つまり、彼は救いということにおいてこの娘を愛している、ということになります。何と交錯した二重性でしょう。一つの感情の複雑な深淵が何と鋭く観察されていることでしょう。これは分析であります。
(トーマス・マン『リヒァルト・ヴァーグナーの苦悩と偉大』 青木順三訳 岩波文庫)

 私がこんな引用をつづけることでなにをいっているのか、わからないひとは幸せです。まったくこれは、わからないひとを侮辱しているのでなくて、ほんとうに羨ましいと思っているんです。私は、自分にあり得たかもしれない人生を考えているんです。いまのような人間にならなくてすんだかもしれない人生について。
 いやいや、私は結局「ただ一人でも行く」、行かざるをえない、そういうことになっちゃったわけなんですけれど。

 とんでもなく話が逸れるように思われるかもしれませんが ── と断わるのは、私がそのまま同じ話をつづけているのだといっているんですよ ──、だから、当時も、それからだいぶ長い期間の私にも、たぶん次の文章を読んで膝を打つということはありえなかったでしょうね。

 何種類かのチンポを知っていなければ、チンポ総体を十全に語ることはできない。一方、チンポの好みを口にするのは、セックスを楽しみ、冷静に自己の体、男の体を分析している女に多い。人前では「そんなの関係ないわよ」と語っていても、本音を聞き出すと、「実は私は〜のようなオチンチンが好きなのよ」てなことを言う。これが恥ずかしいと社会的に思わされているのは、女は性に積極的であってはならず、チンポのよしあしを語れるのはいろいろなチンポを比較できるくらいの数をこなしている淫乱女であるという社会通念のためだろう。
 このような社会通念がある中で恥ずかしがって語らないのではなく、本当にそういうことがわかっていない女もいる。性に対する抑圧が強かったり、ロクな男とセックスしていなかったり、体験が乏しかったりする女はだいたいそうだ。数としてはチンポについてなにもわかっていない女性の方が多いのかもしれないが、チンポのことをよくわかっている女性こそ真実を語り得ると私は思う。もちろん、前者であっていいのだという立場を否定する気はない。ただ、それはその人の趣味でしかないのだ。
 ……(中略)……
 この程度の考えさえ認められないのが、どれほどおかしなことであるのか、さっぱりわからない人もいるに違いない。とりわけ恋愛至上主義にオツムをやられてしまっている人はそうだろう。
(松沢呉一『魔羅の肖像』 新潮OH!文庫)

「「デカチンがいいチンポ」などとの結論を求めてチンポを調べているのでなく「いいチンポ・悪いチンポ」があるかないのかを探し求めて幾千里の私」=松沢呉一の『魔羅の肖像』── 断言しますが、名著です ── を読むことができもし、『死に至る病』をも読むことのできる懐の持てることを私はあなたに期待します。いや、『死に至る病』を読みえたあなたには必ず『魔羅の肖像』での主張の正しさ・厳正さが結局はわかることになるはずです。『魔羅の肖像』を読んでいないあなたが「「デカチンがいいチンポ」などとの結論を求めてチンポを調べているのでなく「いいチンポ・悪いチンポ」があるかないのかを探し求めて幾千里の私」の意味を理解するためにも、キルケゴールは助けになるのじゃないでしょうか。なぜなら、キルケゴールも松沢呉一も、「世のなか」とか「みんな」とかの感受性やら認識やらへのたたかいを挑んでいるからです。「キリスト教」が高尚で「魔羅」が低俗だなんて思うようでは駄目ですね。


 まあ、しかし、『死に至る病』そのものに戻りましょう。「謙遜な勇気」(「厚顔な勇気」に対する)についての先の引用のつづきはこうなっています。

 さてキリスト教は如何! キリスト教は、この個体的な人間が(したがってすべての個体的な人間、彼が日常どんな人間であろうと問題ではない、── 男・女・下女・大臣・商人・床屋・学生等々)、この個性的な人間が神の前に現存していることを教える。彼がその生涯にたった一度でも帝王と話したことでもあるとすればおそらくそれを誇りとするであろうところのこの個体的な人間、もしも彼が少しばかり高貴な地位にある誰彼と親しい関係にあるとすればそれを少なからずも得意とするであろうところのこの人間、── この人間が神の前に現存していて、彼の欲するいかなる瞬間にも神と語ることができ、そして確実に神から聞かれることができるのである、要するにこの人間に神と最も親しい関係に生きるように申し出られているのである! そればかりではない、この人間のために、ほかならぬこの人間のために神は世に来り、人の子として生れ、苦しみを受け、そして死んだのである、── この受難の神がこの人間に向って、彼に申し出られている救助を受け入れてくれるようにと乞うている、いなほとんど嘆願しているのである! 実に、もし世に気が変になるほどの何物かがあるとすれば、これこそまさにそれである! それを信ずることをあえてする程の謙遜な勇気をもっていない者は誰もそれに躓く。なぜであるか? 彼はそれを受け入れるだけの開かれた気持になることができないから。その故に彼はそれを取り除き、破壊して、それを気狂いじみた無意味なものであるということにしてしまわなければならない。それはあたかも彼を窒息せしめるものであるかのように思われるのである。
 一体躓きとは何であるか? 躓きとは不幸なる驚嘆である。それ故にそれは嫉視に似ている。けれどもそれは嫉視している者それ自身に向けられたる嫉視である、── そこでひとは(もっと厳密にいうならば)自己自身に対して最も悪意を抱いているのである。自然人は神が彼に与えようとした並はずれたものを自己の狭量の故に受け入れることができない、そこで彼は躓くのである。
(キェルケゴール『死に至る病』 斎藤信治訳 岩波文庫)

 さらに追加を。これは『カラマーゾフの兄弟』の読者に向けてのものです。

 ところで最後に、自分のなかに閉じ籠もっている人間 ── 彼は閉鎖性のなかで足踏みしている ── の内部をもう一度少しばかりのぞいてみることにしよう。この閉鎖性が絶対に保たれている場合には、あらゆる点において絶対的に完全に omnibus numeris absluta 保たれている場合には、彼に最も近く迫っている危険は自殺である。自己自身に閉じ籠っている人の内面に何が秘められてありうるかということについて、大抵の人達は無論何の予感も持っていない、── もしも彼らがそれを知ることがあったら、きっと驚愕するであろう。それに反しもしそういう状態にある人が誰かに、たった一人の人にでも、ことをうちあけるとしたら、彼はきっとそのために緊張がぐっと弛むかぐったりと深く気落ちするかしてもはや自殺というような行為を遂行する力がなくなるであろう。絶対の秘密に比較すれば、一人でもそれを一緒に知ってくれる人のある秘密というものは一音階だけ調子が柔らかくなっている。そこでおそらく彼は自殺をまぬかれることでもあろう。けれどもその場合絶望者は自分がほかの人に秘密をうちあけたというちょうどそのことに絶望することがありうるのである。もしも彼がずっと沈黙を守りつづけていたとしたら、きっとその方が、いま一人のそれを与り知っている人をえたよりも遥かに限りなく良かったのではないか? 自分のなかに閉じ籠っていた人が、自分の秘密を与り知っている人をえたというそのことのために絶望がもたらされたといういくつかの実例がある。そこでまた結局帰するところ自殺ということになる。詩人はこのような破局(詩の主人公はたとえば国王とか皇帝である)を、主人公が自分の秘密を与り知った人を殺させるといったふうに描きだすこともできよう。このようにして我々はいま自分の秘密を誰かにうちあけたいという衝動を感じている悪魔的な暴君を想い浮かべることができる、彼は次から次と一群の人間を殺すことになる、── というのは彼の秘密を知るに至る者は必らず死ななければならないのである、── 暴君が誰かに自分の秘密をうちあけるやいなやすぐにその人間は殺されてしまうのである。このような結末に終る悪魔的な人間の苦悩に充ちた自己矛盾 ── 自分の秘密を知っている人を持たないでいることも持っていることもどちらも耐えられないというような ── を描写することはけだし詩人に課せられた一つの仕事であろう。
(同)

 こういう人物をあなたは『カラマーゾフの兄弟』の読書で見出しているのじゃないでしょうか?

 また、

 悩んでいる者には、自分はこういうふうに救ってもらいたいといういろいろの仕方というものがある。もしも彼がそういう仕方で救われるのであれば、無論彼は喜んで救ってもらいたいのである。けれども救済の必要が更に深い意味において真剣に問題になる場合、特により高いものないしは最高のものによる救済が必要とせられるという場合、どのような仕方の救済も絶対に受け入れなければならないとしたら、これは屈辱である。あらゆることを可能ならしめる「救済者」の手のなかでは自己はほとんど無に等しきものとならなければならない、或いはまた単に他の人間の前に自分の身を屈しなければならないというだけのことにしても、とにかく彼は救助を求める限り彼自身であることを放棄しなければならない。このような屈辱に比すれば、よし彼がいま抱いている苦悩が疑いもなくどのように数多く、そして深刻であり、またいつ果てるとも知れないほどのものであるにしても、それはまだしも彼にとっては耐ええられるのであり、したがって自己はもしこのまま彼自身として存在することさえ許されるならばむしろこの苦悩の方を選ぶのである。
 さて絶望して彼自身であろうと欲するところのかかる苦悩者のうちに、意識がより多く存在すればする程、それだけまた絶望の度も強くなってそれはついに悪魔的なるものにまで至る。悪魔的なるものの根源は普通次のようなものである。絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。さて当人はまさにこの苦悩に向って彼の全情熱を注ぎかけるので、それがついには悪魔的な凶暴となるのである。そのときになってよし天に坐す神とすべての天使達とが彼に救いの手を差し延べて彼をそこから救い出そうとしても、彼はもはやそれを断じて受け入れようとはしない、いまとなってはもう遅すぎるのである。以前だったら彼はこの苦悩を脱れるためにはどんなものでも喜んで捧げたであろう、だのにその頃彼は待たされていた、── いまとなってはもう遅いのだ、いまは、いまは、彼はむしろあらゆるものに向って凶暴になりたいのである、彼は全世界から不当な取扱いを受けている人間のままでいたいのだ。だからしていまはかえって彼が自分の苦悩を手もとにもっていて誰もそれを彼から奪い去らないということこそが彼には大切なのである、── それでないと彼が正しいということの証拠もないし、またそのことを自分に納得させることもできない。このことが最後には非常に深く彼の脳裏に刻み込まれるので、彼は全く独自の理由からして永遠の前に不安を抱くことになる、── 永遠は彼が他人に対して持っている悪魔的な意味でのかかる無限の優位を彼から切り離し、彼が現にあるがままの彼であって構わないという悪魔的な権利を彼から奪い去るかもしれないのである。彼は彼自身であろうと欲する。
(同)

 こういう人物をも、あなたは『カラマーゾフの兄弟』の読書で見出しているのじゃないでしょうか?
(二〇〇七年十二月)



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