(二七)「謙遜な勇気」 前回、私はキルケゴールの名を引いて、アリョーシャ・カラマーゾフの「謙遜な勇気」といいましたが、それはこういうことなんです。
私がこの『死に至る病』を読んだのは、大学一年のとき(一九八一年夏)で、べつの大学(ミッション系)に入った高校時代の友人のために、彼の必修科目のレポートを代筆するので読まなくてはならなかったんですね。 しかし、その読書からあれほどの衝撃を自分が受けることになるとは夢にも思わなかったんです。あんな衝撃はもう二度とご免だといまでも私は思っているのじゃないでしょうか? そのときの私はまだドストエフスキーの『罪と罰』も『白痴』も『悪霊』も『カラマーゾフの兄弟』も読んでいませんでした。かろうじて、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』だけは読んでいましたが。 そのときの私はまだただひとりの異性ともつきあったことがありませんでした。 いやはや、『死に至る病』は、そんな若者がいきなり読んではいけない本なのじゃないでしょうか? というのは、ひとつには、この本で語られていることのいちいちが恋愛あるいは恋する者の心理ということに読み換えうる(しかし、それもキルケゴールと彼の婚約者との関係についてや、彼の他の著作を読めば、当然のことなのかもしれません)のじゃないかと私が思っているからで、実際、私はそんなふうに読んだわけなんです。そういう読みかたをするひとにこの本はとても危険だ、劇薬であると私は思うんです。この読書はあまりにも読者を試す ──「あれかこれか」のいずれかの極端へと向かわせる ── ことになるかもしれないからです。 私が『死に至る病』およびそこからのつながりでのドストエフスキー、ニーチェ、カミュなどから受けた傷・損傷・破損・破裂・裂傷・壊疽・複雑骨折・打撲などなどの認識・感動・高揚・苦悩から、かりそめにも回復 ── しかし、元通りになるなんてことはありえません ── するまでにいったいどれくらいの年数が必要だったか? 十年じゃきかないのじゃないでしょうか? それで、一連の読書から受けた・こうむった「傷・損傷・破損・破裂・裂傷・壊疽・複雑骨折・打撲などなどの認識・感動・高揚・苦悩」などが、そもそもそれらの読書の最中の自分 ── 冒頭はちんぷんかんぷんでしたが、読み進むにつれ、ただもうのめり込んで熱中しました。なにか格闘の充実感というか、そういうものがありましたっけ ── にちゃんとわかっていたかといえば、そうじゃないんですね。これは、それらを読み終えてしばらく時間のたった後でなにかの拍子に漠然と、曖昧な違和感をともなって ──「あれ?」というふうに ── わかりだすんです。というのは、気がつくと、なにかを考えるのに、たとえば自分が読み取ったキルケゴールの視点・方法で自分が考えている、これまでそんな視点・方法 ── あるいは語彙といってもいいですが ── で考えたことのなかったことをキルケゴールふうに考えているんです。次第にそういう自分の変調に当惑することになるんです。それまでは無意識にできたこと・当たり前に感じたり、判断したりできていたことがそうできなくなっているんです。そうして、いつのまにかとても奇妙で奇怪な未知の自分が自分のなかに居座っていることに気がつくんです。 なにか大きい規模で他人から神経の移植手術でも受けたようなものです。自分の神経のある部分が大きく抉られ、破壊され、摘出され、他人の神経が移植され、それに向かって、自分の神経が徐々に、これまでとはべつの形・べつの触手を伸ばして結合し、まったく新しいネットワークを築きはじめた、とでもいえば、わかってもらえるでしょうか。これについては、いつかマーラーやシベリウスに触れることがあれば、もうちょっとしゃべりましょう。 そうすると、私にとっての「世界」はこれまでとは全然べつのものになったわけです。「世界」はこれまで自分が考えていたようなものじゃなかった、と私は理解しはじめるんですね。それは、まるで自分がそれまで知っていた「世界」から裏切られたというような感じもしたんでした。それにしたって、ある時点で一連のなにもかもが不意にわかったというのじゃなくて、とにかく自分がおかしくなっているのはわかるけれども、それがどうなっているのか、どういうことなのか、どうしたらいいのか、どう動けばいいのかのわからない状態がずっとつづいていたということです。うまく説明できません。それに、私は『死に至る病』を読んでからしばらく ── 数年か、いや、十年単位で考えなくてはならないのかもしれません ── のことを、あの当時のそのままに思い出したくはないんです。たぶん、怖いんです。そういう覚悟が決まらないまま、ここでしゃべっているんです。怖いまま、あなたにも読めといっているわけです。 そんなわけで、『死に至る病』についていえば、未読の方は覚悟してください。それと、いわば解毒剤としての椎名麟三の名まえをいまは挙げるだけにしておきましょうか。 『死に至る病』には、たとえば、こんな文章もあります。
あるいは、
どうです? こういう問いかけそのものが読者にとっては酷じゃないでしょうか? ここに、またべつのいくつかの作品の次のような文章をそれぞれ一滴ずつ垂らしてみたらどうでしょう?
あるいは、
いま、ちょっとこれを思い出しました。
それはともかく、べつの作品からは、
また、ワーグナーの歌劇『さまよえるオランダ人』(神を侮辱することばを口にしたために、永遠に海上をさまよう ── 死ぬこともできない ── 呪いを受けたオランダ人の船長は、しかし、七年に一度陸に上がることを許されています。その機会に彼が自分を愛してくれる処女を見出すことができれば ── 彼女の死とともに ── 呪いを解かれるんです)についての文章。
私がこんな引用をつづけることでなにをいっているのか、わからないひとは幸せです。まったくこれは、わからないひとを侮辱しているのでなくて、ほんとうに羨ましいと思っているんです。私は、自分にあり得たかもしれない人生を考えているんです。いまのような人間にならなくてすんだかもしれない人生について。 いやいや、私は結局「ただ一人でも行く」、行かざるをえない、そういうことになっちゃったわけなんですけれど。 とんでもなく話が逸れるように思われるかもしれませんが ── と断わるのは、私がそのまま同じ話をつづけているのだといっているんですよ ──、だから、当時も、それからだいぶ長い期間の私にも、たぶん次の文章を読んで膝を打つということはありえなかったでしょうね。
「「デカチンがいいチンポ」などとの結論を求めてチンポを調べているのでなく「いいチンポ・悪いチンポ」があるかないのかを探し求めて幾千里の私」=松沢呉一の『魔羅の肖像』── 断言しますが、名著です ── を読むことができもし、『死に至る病』をも読むことのできる懐の持てることを私はあなたに期待します。いや、『死に至る病』を読みえたあなたには必ず『魔羅の肖像』での主張の正しさ・厳正さが結局はわかることになるはずです。『魔羅の肖像』を読んでいないあなたが「「デカチンがいいチンポ」などとの結論を求めてチンポを調べているのでなく「いいチンポ・悪いチンポ」があるかないのかを探し求めて幾千里の私」の意味を理解するためにも、キルケゴールは助けになるのじゃないでしょうか。なぜなら、キルケゴールも松沢呉一も、「世のなか」とか「みんな」とかの感受性やら認識やらへのたたかいを挑んでいるからです。「キリスト教」が高尚で「魔羅」が低俗だなんて思うようでは駄目ですね。 まあ、しかし、『死に至る病』そのものに戻りましょう。「謙遜な勇気」(「厚顔な勇気」に対する)についての先の引用のつづきはこうなっています。
さらに追加を。これは『カラマーゾフの兄弟』の読者に向けてのものです。
こういう人物をあなたは『カラマーゾフの兄弟』の読書で見出しているのじゃないでしょうか? また、
こういう人物をも、あなたは『カラマーゾフの兄弟』の読書で見出しているのじゃないでしょうか? |